スコット南極点到達
 
期間 1910年6月15日~1913年2月10日
リーダー ロバート スコット(イギリス)
隊員数 25名(第1冬を越冬した人数。テラ・ノバ号乗組員は含まない)
目的 南極点到達およびロス海沿岸から南極点までの科学調査
計画 テラ・ノバ号でマクマード湾に入り、エバンス岬に基地を作る。
第1の夏の内に南進し、デポ(食料・燃料等物資貯蔵所)を作る。
科学調査を行いつつ越冬する。
第2の夏、馬の引くソリと発動機ソリの支援の下、人力ソリで極点を目指す。
結果 南進隊のうちロバート スコット、エドワード ウィルソン、エドガー エバンス、ローレンス オーツス、ヘンリー ボワーズの5名が最終的に極点を目指す。1912年1月17日南極点に到達するもアムンゼンに1ヶ月の遅れをとる。帰還の途中、天候の悪化と食料・燃料の欠乏のため全員死亡。
他の隊員は翌春南進隊の最終キャンプを発見し、詳細な記録を発見するとともに遺体を埋葬。多くの科学的成果とともに無事帰国。
クロジール隊 ウイルソン、ボワーズ、チェリー・ガラードの3名はコウテイペンギンの胚(孵化前の受精卵)を手に入れるため、第1の冬の越冬中にクロジール岬までの5週間往復246kmの人力ソリ旅行を決行。クロジール岬で嵐によりテントが飛ばされるなど、辛苦の旅の末3個の卵を持ち帰る。チェリー・ガラードの言う「世界最悪の旅」。
キャンベル隊 キャンベル以下6名はアデーア岬に上陸し周辺のソリ旅行の後越冬。翌夏メルボルン山付近に再上陸し周辺の調査を実施。テラ・ノバ号が接岸できず取り残される。雪洞を掘り、アザラシとペンギンを食べて越冬。翌春自力で全員無事エバンス岬に帰還。
 
探検の経緯はこちら
  
スコットにとっては不本意きわまりないことでしょうが、この探検は悲劇の旅として深く人々の記憶に残ることになりました。この稿ではなぜ彼が遭難するに至ったかを軸に彼の旅を追って行きます。
  
探検隊の成り立ち
デポ旅行
冬の行進(世界最悪の旅)
本隊の出発(準備中)
氷河を登る(準備中)
高原を進む
極点へ
帰還の旅と遭難
南進隊の捜索
キャンベル隊の生還(準備中)
なぜ遭難したか
 
探検隊の成り立ち
この探検はスコット自身による第1回南極探検(1901年から1904年)の成果を引き継ぎ、ロス海近辺の南極大陸についての知見を深めることを最大の目的としたものでした。もちろん、シャックルトンの南極点への挑戦(1908年)の成果を南極点に到達することによって完成させることも目的の一つではありましたが、南極点到達はその科学的成果よりも、探検の資金を得るという意味でスコットにとって重要だったようです。
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デポ旅行
探検隊を乗せたテラ・ノバ号は1911年1月4日にマクマード湾に到着し、直ちにエバンス岬における基地の建設が始まりました。貨物の陸揚げも順調に進み、その秋の内にロス棚氷上にデポ(食料・燃料などの貯蔵所)を構築する旅が企てられました。

過去の南極探検の経験から、この旅の主要な運搬手段には満州産の馬の引くソリが当てられましたが、どうやらこれは失敗だったようです。寒さのため倒れる馬も多く、また氷の割れ目に落ちて死亡するものもあり、期待したほどの能力を発揮できませんでした。それでも2月17日には棚氷の上に1トンデポを構築することができましたが、その緯度は南緯79度29分に過ぎませんでした。(アムンゼンも同じ時期にホエールズ湾でデポを構築していますが、最南のNo.3デポは南緯82度に達していました)
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冬の行進(世界最悪の旅)
第1の冬の越冬中、ウイルソンはクロジール岬に行き、コウテイペンギンの卵を持ち帰ることを企てます。その当時コウテイペンギンは最も原始的な鳥類と考えられており、その孵化前の卵は鳥類の進化の歴史に新しい1ページを書き加えると期待されていました。クロジール岬は当時知られていた唯一のコウテイペンギンの営巣地であり、しかもその産卵は南極の冬至の直後の暗黒の中で行われるとウイルソンは推定しました。このことから、極夜のさなか、極低温に加えて1日に数時間だけ薄明かりが射すという悪条件の下での往復246kmの人力ソリ旅行が敢行されたのです。

ウイルソンとボワーズ、チェリー・ガラードの3人は2台のソリを引いて6月22日の南半球の冬至の日にエバンス岬の基地を出発し、19日かけてクロジール岬にたどり着きます。この旅の第1の敵は「極低温」でした。氷点下61度Cにも及ぶ低温の下では、テントを張り、寝袋に入っても熟睡することはできません。ソリを引く重労働を続けても手足や顔はどんどん冷えて行き、常に凍傷の危険があります。また低温のためソリは滑らず、2台のソリを一度に引くことができた日はまれでした。体から出た水分は衣類や寝袋の中で凍りつきすべての布を氷の板に、すべての紐を氷の針金にしてしまいます。

この旅の第2の敵は「暗黒」でした。懐中電灯が実用的ではない時代です。起床、朝食の準備、ソリ引き、テント張りなど、ほとんどの作業は暗闇か、よくて薄明かりや月明かりのなかで手探りで行うことになります。またソリが滑らず2台を一度に引けないときは、裸ろうそくを灯してもう1台を取りに足跡をたどって戻らなければならないのです。唯一の救いは月だったようです。

そして第3の敵は「風」で、これは3人の命をほとんど奪うことになりそうでした。クロジール岬に到着すると3人は石小屋を作り、殺したペンギンの脂肉を燃やすストーブでようやく寒さをしのげる状態になりました。ところが突然の嵐が彼らのテントをさらって行き、石小屋の天井を吹き飛ばしたのです。この嵐は36時間以上続き、その間3人は何も食べず寝袋で雪に埋められて過ごしたのです。飛ばされたテントが奇跡的に見つかるという幸運に恵まれなければ、無事に基地に帰ることはほとんど不可能だったことでしょう。

テントを見つけた3人は、やっとのことで手に入れた3個のコウテイペンギンの卵とともに帰途につき、7日間かけてようやくエバンス岬の基地に生還しました。この旅についてチェリー・ガラードは「われわれの装備からすれば、やるべからざるものであった」と回想しています。この旅に参加した3人のうち、2人までもが次の夏の南極点到達の旅に参加し、スコットと共に遭難したことは注目に値します。このような、生命を削る旅は身体に大きな負担を与えるものです。この負担が果して半年足らずの間に完全に回復していたかどうか… むしろ、完全に回復してはいなかったと見るのが普通でしょう。スコット自身はこの旅に当初反対だったと言います。もしそれを貫き通して、この旅の実行を差し止めていたならば、もしかすると彼らは極点から生還できていたかもしれません。少なくとも1トンデポのわずか手前までは戻ってくることができたのですから。
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本隊の出発
(準備中)1週間前に先発した2台の動力ソリを追い、スコットを含む本隊は1911年11月1日にエバンス岬を出発します。当初から不調だった動力ソリは早々に動かなくなり、人力ソリと8台の馬ソリ、そして後発の犬ソリ2台で南を目指します。苦難の旅の末、12月に入ってようやくベアドモア氷河の入り口にたどり着きます。
 
氷河を登る
(準備中)ベアドモア氷河の入り口で犬ゾリを帰し、本隊が3台の人力ソリで氷河を登り始めたのは12月10日のことです。ここから12日かけてベアドモア氷河を登りきり、標高2180mに達しました。ここに上氷河デポを構築し、1台のソリを基地へ帰します。
 
高原を進む
本隊は12月22日に8人の隊員と2台の人力ソリで上氷河デポを出発し、なおも南を目指します。これまでの旅もそうですが、この行程でもスコットは限界に近いペースを保たせたようです。スコットの組は比較的元気でしたが、もう一組は徐々に疲労が増してきました。こちらの組の内二人(エバンス少佐とラッシュリー)は動力ソリの故障以来ずっと人力でソリを引いてきたのですから、それも当然かも知れません。そして南極高原は標高3000m前後もある高地なのです。1908年の南極高原の旅で、シャックルトンは高山病と思われる症状に苦しめられています。

このころから、この旅の本質が徐々に明らかになってきます。それは、厳しい気候の下で、限られた食料を用いて、ソリ引きという重労働を人間がどれだけの期間続けることができるか、という人間の体力と持久力の限界に挑む旅だったのです。生きて帰るためには夏の間に基地まで帰り着くことが必要で、速度の遅い人力ソリはその限界に近い進度を保つしかありません。その状態をはたして帰着まで続けられるかどうかが生死の分かれ目でした。

この2台のソリは南極高原を南緯87度32分(南極点の手前274km)まで進み、エバンス少佐以下3名はそこから帰還します。帰路エバンス少佐が壊血病を発病したことなどによりこの隊も大変な苦労をしますが、なんとか生きて基地に帰り着くことができました。
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極点へ
最後の帰還隊を帰すにあたり、スコットは重大な決断をしています。それは極点へ5人で向うという決断です。この探検での人力ソリはすべてが4人一組となるよう設計されていました。テントのサイズ、ソリのサイズから、スキーの数、食器の数までが4人のチーム用にできていたのです。しかしスコットは5人で極点を目指す決断をしました。もし、このとき4人で極点に向っていたら、はたして結果はどうだったでしょう。この4人が極点に到達していたことは実際の天候から考えてまず間違いないでしょう。では無事に帰還できたでしょうか?

多分これは誰を帰還させるかにかかっていたでしょう。南極点に向った5人のうち、最も早く消耗したエバンス(水兵エバンス)を帰還させていたなら、極点へ向った隊が帰還できていた可能性は最も高くなったでしょう。もちろん、これは結果論に過ぎません。またこの仮定は別の疑問を生みます。もしエバンス少佐の隊が水兵エバンスを加えて4人で帰還したとしたら、壊血病のエバンス少佐と消耗したエバンスの二人を抱えて果して生還できたかどうか… もしかすると、この旅はだれかの遭難なしには終わることはできなかったのかもしれません。いずれにせよ、極点へはスコット、ウィルソン、オーツス、ボワーズ、エバンスの5名が向いました。そして彼らを待っていたのはアムンゼンの残したテントと「氷晶」だったのです。

1912年1月4日に最終帰還隊と分かれてからしばらくは順調な旅が続きます。しかし南極まで167kmの地点に1度半デポを築いたころから寒さと氷晶に悩まされる日が多くなったようです。氷晶は空中の水蒸気が直接固体になってできる微小な氷の粒で、これが現れて地表を覆うととたんにソリが滑らなくなりました。これからのち、彼ら自身の体力の衰えともあいまって、滑らないソリに悩まされ続けることになります。

1月16日、彼らはアムンゼンの残したソリ跡を見つけます。17日には極点と思われる場所に到着して位置の詳しい観測を行い、次の日、その観測に基づいて最南端に赴きます。そしてその途中、アムンゼンの最南テントを見つけたのです。彼らは人類初の南極点到達を目指したわけですが、皮肉にも彼らがアムンゼンの南極点到達を証明することになってしまいました。このことはスコットたちにとって大きな力落としだったことでしょう。
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帰還の旅と遭難
1912年1月19日、スコットたちは極点を後にします。夏至はすでに彼方に過ぎ、季節に追われるように彼らは先を急ぎます。しかしエバンスを初めとして、全員の体力の衰えは隠せません。しかし彼らはひたすら北をめざします。

帰還の旅のベアドモア氷河の行程は登り以上の難関でした。下からは目で見ることのできた氷瀑(アイスフォール。氷河が急な斜面を下る部分。裂け目や崖が多く通れない)が、上からはその場に着かないと見えないのです。先に帰還した二つのソリもここで道をあやまり、苦労をして通過しています。もし登りの行程で正しいルートを示す道しるべを築くことができていたら、というのもこの旅の「もし」の一つでしょう。彼らは2月8日に上氷河デポを後にして氷河を下り始め、2月18日にようやく下氷河デポにたどり着きました。しかしその直前、2月17日にエバンスが体力を使い果たして死亡しています。

2月18日からは再び平坦な氷原の旅が続きます。しかし、体力の衰えはいかんともしがたく、進度は次第に落ちて行きます。食料と燃料も乏しくなり凍傷に足をやられたオーツスが3月16日に倒れました。スコット、ウィルソン、ボワーズの3名も3月21日に1トンデポの手前20kmのテントで荒天に見舞われ、食料と燃料も尽きて動きが取れなくなります。スコットの最後の日記は3月29日でした。

この帰還の旅では、彼らに生き延びるための選択の余地はほとんどありませんでした。極点に5人で向かい、そこに到達を果たした以上は、ひたすら北を目指すしかなかったのです。もう少し幸運があれば、エバンスを除く4名は生還できたかもしれません。氷原のデポで燃料が不足していなければ、また氷原の天候がもう少しおだやかであったならば… しかし幸運の女神は彼らに微笑みませんでした。スコットはこう書き残しています。『われらは危険を敢えてせり。われらはその危険なることを承知しいたり。ただ事情がわれらに与せざりしなり。さればわれらは何ら不満の意を表すべきいわれなし。』(「世界最悪の旅」チェリー・ガラード著、加納一郎訳より)
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南進隊の捜索
1912年の冬が来て、エバンス岬の基地には13名の隊員が越冬しました。この時点で彼らは二組の行方不明の隊をかかえていたのです。一組は南極へ向って帰らなかったスコット以下5名の南進隊、そしてもう一組はマクマード湾西岸のメルボルン山付近にいるはずのキャンベル隊の6名です。南進隊は全員死んだものと考えられていましたが、キャンベル隊は海岸近くにいるため、ペンギンやアザラシで命を繋いでいる可能性が高いと思われていました。

春が近づき、これらの2隊をどう捜索するかが問題となりました。両方の隊に対して捜索隊を派遣するには人数と装備が不足していたためです。越冬隊の指揮を執っていたアトキンソンは会議を開き、死亡しているはずの南進隊の捜索を行うことを決断しました。この決断の理由をチェリー・ガラードは次のように記しています。
・キャンベル隊は先の秋、テラ・ノバ号に救出された可能性がある
・キャンベル隊が無事冬を越せているとすれば、彼らは自力で基地に帰りつくことができるかもしれない
・南進隊についての情報は捜索に向わない限り決して手に入らない
・南進隊についての情報を持ち帰ることは探検隊全体の義務である
・南進隊の発見は困難であろうが、スコットが上氷河デポに何らかの記録を残している可能性がある。

1912年10月30日に捜索隊は南に向けて出発し、11月11日に1トンデポに到着します。そして11月12日に南進隊の最終キャンプを発見しました。そこにはスコット以下3名の遺体とすべての記録、そして途中で手に入れた鉱物標本など、すべてがあったのです。彼らは遺体をその場に埋葬し、探検隊の生命以外のすべての成果を持ち帰ったのです。

目的を遂げ、キャンベル隊の捜索に向うべくエバンス岬の基地に帰り着いたのは11月25日のことです。そこで彼らを待っていたのはキャンベル隊の生還という、夢のようなニュースでした。
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キャンベル隊の生還
(準備中)
 
なぜ遭難したか
スコットの隊はなぜ遭難したか…これまで何度となく問いかけられた疑問でしょう。チェリー・ガラードの著書を読むかぎり、根本的な問題は食料にあったように思われます。かれらが用意した食料は2種類ありましたが、高カロリーの「高原部用食料」にしても1日あたり4889カロリーの熱量しか与えてくれないものでした。ところが、実際に必要な熱量は8500カロリーであったろう、とチェリー・ガラードは記録しています。ということは、彼らの旅は徐々に体内の蓄えを使い尽くすものだったのです。チェリー・ガラード自身が体験した、ソリ引きの旅による体重減少と、ソリ引きに必要のない筋肉の衰えがそのことを実証しています。

では、食料をもっと増やせばどうだったでしょう。スコットの隊で荷物を運ぶのは人間自身だったことを考える必要があります。果して倍近い量の食料を運んで、南極点まで往復することができたでしょうか? 南極高原での旅の記録を見る限り、無理だったと言わざるを得ません。南極高原では、ソリは滑らないのです。もしかすると、スコットにとって遭難を避ける唯一の道は「途中であきらめて帰る」というものだったかもしれません。1908年のシャックルトンが勇気を持って決断したように。
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