アムンゼン南極点到達 |
期間 | 1910年6月7日~1912年3月7日 | |
リーダー | ロアルド アムンゼン(ノルウェー) | |
隊員数 | 19名 | |
目的 | 南極点到達およびキング・エドワード7世ランド(現在のキング・エドワード7世半島)の探検 | |
計画 | フラム号でホエールズ湾に上陸、デポ(食料・燃料等資材の貯蔵所)作成後越冬。 次の夏、犬ゾリで極点へ。 船で最も南極点に近づくことができる場所としてホエールズ湾を出発地に選ぶ。文献調査によりホエールズ湾近辺に安定した陸上の氷があることを推定していた。ただし、ホエールズ湾から南極点へのルートは全くの未開拓であった。 当初北極点を目指す探検隊であったが、ピアリーの北極点到達の報に接して目的地を南極点に変更した。 |
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結果 | ロアルド アムンゼン、ハンセン、ウィスチング、ハッセル、ビアーラントの5名が1911年12月14日南極点に到達。全員無事帰還。1860マイル(2976km)を犬ゾリとスキーにより99日間で走破したことになる。 | |
東方隊 | クリスチャン プレストルッド、ヨハンセン、ステュールバッドの3名が約40日間の犬ゾリ旅行を行い、ホエールズ湾東方のキング・エドワード7世ランドを調査した。全員無事帰還。 |
探検の経緯はこちら |
1911年12月14日、アムンゼンら5名は初めて南極点に人類の足跡を印しました。1902年のスコットの挑戦に続いて1908年のシャクルトンの挑戦をはね返した南極点は、39歳のノルウェーの探検家の率いる犬ゾリ隊についに門戸を開いたのです。 |
探検隊の成り立ち |
探検ルートの選定 |
1回目の出発 |
2回目の出発 |
氷河を登る |
南極点到達 |
帰還 |
犬 |
スキー |
雪塚 |
デポ |
探検隊の成り立ち アムンゼンの探検隊は史上初の北極点到達を目指して編成されたものでした。ところが、出発を翌年に控えた1909年、アメリカの探検家ピアリーが北極点に到達したとの知らせが世界を駆け巡りました。初の北極点到達という目標が消えてしまったため、アムンゼンは目的地を北極点から地球の裏側の南極点に変更しました。結果としてイギリスのスコットの率いる南極探検隊と同じ年、つまり1911年から1912年にかけての夏に南極点への先着を争うことになったのです。 先頭へ |
探検ルートの選定 アムンゼンはロス棚氷のホエールズ湾を探検の出発点として選びました。1908年から1909年にかけてのシャクルトンの挑戦により、マクマード湾からベアドモア氷河を経由して南緯88度23分まで到達するルートが開拓されていたにもかかわらず、彼は全く新しい未知のルートを選んだのです。アムンゼンは起点としてホエールズ湾を選んだ理由を六つ挙げています。 (1)船で最も南に行ける場所であること (2)棚氷の状態を直接見ることができる場所であること (3)食料となる動物が豊富であること (4)周囲に陸地がなく、棚氷の科学的調査に向いていること (5)船で比較的容易に到達できる場所であること (6)ホエールズ湾の棚氷は動いておらず、基地を作るのに適していること 最後の利点は棚氷の本質に関係しています。ロス海を覆う棚氷は南極大陸に降り積もった氷雪がゆっくりと海上に押し出されて形成されるのですが、棚氷の北の端は海水に洗われて常に崩れていて、数十メートルの高さの氷の壁(大氷壁)を形成しています。棚氷は時として数十kmの幅で切り離され、氷山として流失しますから、棚氷上に基地を作るとしたら大氷壁から十分離れた内陸部に作る必要があると考えられていました。アムンゼンはそれまでのロス海の探検記録から、ホエールズ湾では数十年にわたって棚氷が動いていないことに気づき、比較的海岸に近い場所に越冬基地を作ることのできる可能性に賭けたようです。現地に到着してホエールズ湾の氷壁が他の場所とは様相を異にすることを確認し、海岸の近くに基地を建設することを決断しました。基地を海岸近くに建設できたため基地の建設や船からの物資の搬入の時間が節約でき、南緯82度までの3箇所のデポ(食料や燃料の貯蔵所)を構築するなど次の夏の南進に向けての準備を十分に行うことができました。 ホエールズ湾から南極点を目指すルートは全くの未開拓ですから、この探検ルートを選ぶこと自体が大きな賭けだったに違いありません。しかしアムンゼンはマクマード湾からの既知のルートを通る考えは早々に捨てただろうと推察します。1908年のシャクルトンの探検の報告から、途中のベアドモア氷河が大変な悪路であり犬ゾリで踏破することは困難であると知っていたはずですし、そのルートは同じ夏にスコット隊が使う可能性が高かったからです。 アムンゼンの探検ルートとスコットの探検ルートはこちらにあります。地図の中央左よりのルートがホエールズ湾から極点に達するアムンゼンのルートです。中央右よりの実線のルートが同じ年のスコットが極点を目指したマクマード湾からのルートです。 先頭へ |
1回目の出発 極夜が明け、太陽が北の水平線に顔を出すようになってわずか16日目の1911年9月8日、アムンゼン隊は9名の陸上隊全員で極点に向けて出発しました。しかし気温がマイナス56度まで下がるなど機が熟していないことを見て取ると、南緯80度のNo.1デポで荷物を下ろしてあっさり引き返します。この小旅行の経験に基づいてアムンゼンは陸上隊を二つに分けることを決断しました。南極へはアムンゼン率いる5名が4台の犬ゾリで向かい、プレストルッド率いる3名が東方の探検に向かうことにしたのです。無理と見れば引き、不都合があれば隊の編成や探検の計画さえもあっさり変えてしまう、この柔軟性がアムンゼンの探検家としての資質をよく表しています。この小旅行は南進そのものにとっても大きな価値がありました。この旅行の結果、南進に必要な資材がすべて南緯80度まで運ばれたのです。アムンゼンの著書のこのくだりを読むと、この撤退は予定の行動ではなかったのかと疑わせられるほどの余裕を感じます。 先頭へ |
2回目の出発 ホエールズ湾の棚氷にようやく春のきざしが見えてきた10月19日、アムンゼンの一行は2回目の出発を果します。準備万端整えて、あとは南極へまっしぐら…ではありません。一行は計画通りのペースで慎重にソリを進めます。事務的とも言える律儀さで、帰り道の目印となる雪塚を作りながら。11月15日に南緯85度に達し、平坦なロス棚氷の旅はこれで終わりを告げます。 先頭へ |
氷河を登る ロス海側から南極点を目指すルートの最大の難関は南極横断山脈です。海抜4000mを超える山々の連なる大山脈ですから、海抜の低い鞍部を目指すしかありません。しかし鞍部は必ず南極高原からの氷河の通り道となっています。南極高原に降り積もった氷雪が圧縮されてできた氷が押し出され、変形と崩壊を繰り返しながらゆっくりと流れ落ちる氷河は急斜面とクレバス(割れ目)の集まりです。3000mの高度差のある地図もない荒れた斜面を、激しい凹凸に視界を妨げられながら登りきる必要があります。 アムンゼンたちはこの難関をスキーによるルート探索で乗り切りました。先の見通しの付かない地点に到達するとまず少数のメンバーが身軽で安全なスキーで通過可能なルートを探し、その後犬ゾリで移動します。この方法により、南極点に到達するための最も大切な資源であるソリ犬の体力を無駄使いすることなく無事に南極高原に達したのです。氷河の最も急な部分を登るのに要した日数はわずか4日でした。 先頭へ |
南極点到達 12月14日の午後、前日までの観測結果と当日の移動距離から南極点と想定できる地点に一行は到達しました。ここで彼らは二つのことを行っています。 ・13時間の太陽高度の観測 ・進行方向とそれに直角な2方向にそれぞれ20kmの徒歩行進を行い、到達点に旗を立ててくること 前者は自分たちの到達地点が正確にどこであるかを証明するために重要なことです。後者は位置の不確実さを補完し、真の南極点に最初に到達したのが自分達であることを確実にしようとするものです。 極点は元々何の目印もありませんから、その地点に到達したことを証明するのは多くの場合困難です。現にピアリーの北極点到達は後に大きな議論を呼び、彼は北極点の手前50kmないし100kmに到達したに過ぎないという説が強く主張されました。しかしアムンゼン達は幸運でした。この1ヵ月後、イギリスのスコット隊が同じ地点に到達し、彼らの極点到着を証明してくれたからです。 12月16日、アムンゼン達は9km移動し、そこを彼らの真の南極点として小型テントと国旗を立てました。そしてさらに24時間かけて精密な太陽観測を行い、かれらの極点到達を証明する観測を得ました。 先頭へ |
帰還 かれらの帰還の旅は当初の想定以上に快適なものだったようです。南極へ向う行程で築いた雪塚が安全なルートを指し示してくれます。時期は南半球の夏至のころですから、南極の夏はまだまた続き、危険を冒してまで急ぐ必要はありません。危険を伴う氷河下りも、登攀時に利用したルートを逆にたどることで大きな障害にであうことなく突破することができました。 彼らがホエールズ湾の基地「フラムハイム」に帰還したのは1912年1月25日のことです。南極点までの往復1860マイル(2976km)の旅程を99日間で走破したことになります。 先頭へ |
犬 アムンゼンの旅で最も重要な要素は何だったでしょう。彼自身は「犬」がそれだったと書いています。犬は粗食に耐えて重いソリを引く力の源泉であると同時に、他の犬や隊員にとっての食料でもあったのです。南極点を目指す旅は52頭の犬を連れて始まりましたが、帰着した犬は11頭でした。残酷なようですが、これが当時の南極探検の厳しさをよく表しています。 もちろん、彼らは犬を単なる道具として扱ったわけではありません。犬に仕事をさせるためには、人はリーダーでなければならないのです。あるとき、他の犬の食料を横取りしようとした犬を見つけたアムンゼンは、その犬と取っ組み合いをして盗品を取り上げ、リーダーとしての権威と実力を示したそうです。 先頭へ |
スキー アムンゼンの旅を支えたもう一つの重要な要素は「スキー」でした。 氷河の登攀で大いに活躍したスキーについてアムンゼンはこのように書いています。 「このところ毎日、われわれはスキーを礼賛しあった。もしこのすぐれた履物を使わなかったらば、いまごろはいったいどのへんにいるだろうかと、よくおたがいに話したものである。答えはいつもきまって、おそらくはクレバスの底じゃないだろうか、ということであった。」 また、自分たちのことを「スキーを足につけて生まれ育ってきたような」と形容しています。このことは、同じ夏に南極点を目指したスコット隊の多くの隊員が南極に来るまでスキーを履いたこともなかったことと好対照を成しています。 先頭へ |
雪塚 前年のデポ旅行で立てた雪塚が健在なのを見て、アムンゼンは極点への往路で雪塚を作りつづけました。その数はなんと150基に達しました。写真に見る雪塚は高さ180cmのアステカのピラミッドのようです。各々の雪塚には次の(一つ北方の)雪塚までの距離と方向を書いた紙が収めてありました。この雪塚は晴れていれば遠くからでもよく見え、帰還の旅では大きな心の支えになったそうです。 先頭へ |
デポ 棚氷の上や南極高原では食料や燃料を手に入れる術は皆無ですから、全ての資材はあらかじめ置いておくか、自分で運んで行くしかありません。アムンゼンは、ホエールズ湾に到着した秋の間に、南緯80度と81度、そして82度の3箇所のデポ(貯蔵所)を構築しました。 デポは旅の途中でも作ります。南極点に向かう往路では、7箇所のデポを作りました。デポの構築によってそこからの旅の荷を減らすことができます。しかし、もし復路でデポが発見できなければたちまち窮地に陥ってしまいます。ここで大きな安心をもたらしたのが上で述べた「雪塚」でした。 先頭へ |
2004/7/25 |